多町よもやま話
神田小学校野球部が全国大会へ―昭和六年(1931)

昭和5年に結成された神田小学校野球部は
翌6年に投手で4番の立山芳太郎君(多一)を中心に神田地区代表から
東京代表となり大阪・藤井寺球場における第七回全日本学童野球大会に出場した。
神田小野球部は東京で一、二を争う強豪で、
神田小学校正門前のキユーピー堂(駄菓子屋)の山田金太郎氏が
監督として熱心に指導されていた。

旧多町一丁目・最後の神田祭―昭和七年(1932)

関東大震災があり、大正11年以来10年ぶりの神田祭であるが、
江戸古町の多町一丁目としては最後のお祭りである。

翌八年には住居表示の変更で多町一丁目は多町二丁目に合併が決まっているからである。
これが江戸以来の東京下町。大勢の老若男女が集まった。
神輿の後方には「塩栄」「鳥正」さんが見える。
多町通りでの貴重な記念写真である。

旧多一神輿が博物館に―昭和八年(1933)

旧多一町会は町会合併にあたり大小神輿、太鼓山車を国立博物館に寄贈している。
大正九年、八丁堀の秋山三五郎作の神輿一式は、
惜しくもたったの14年の現役を終えてしまった。
旧多一役員らの博物館前でのお別れの記念写真は神輿も人々も威風堂々である。
戦後、この神輿は復活して昭和52年まで多町二丁目の神田祭で活躍した。

神田復興祭―昭和二一年(1946)

敗戦翌年の昭和二一年九月に神田区主催「神田復興祭」が挙行された。
新多町二丁目町会は博物館に寄贈した旧多町一丁目の神輿を13年振りに借り出して
明神さまに宮入参拝し「神田っ子」の意気を大いにしめした。
20才前後の若者たちの貧しくとも楽しくお祭りができる、
とびっきりの笑顔が「平和」の象徴である。

多二日赤奉仕団、両陛下を迎える―昭和二五年(1950)

GHQ指令で禁止された町会に替え、一月に「」日赤奉仕団を結成し
大塚紋太郎氏が委員長に就任した。

この5月9日、天皇皇后両陛下が神田小講堂の
多二・日赤奉仕団の特設作業場を訪問、見学された。
当時の多町にとっては非常に輝かしい光栄ある出来事であった。
この三年後に多町二丁目町会が創立され戦後の町会活動が始まった。

町会有志、明神さまへ初詣―昭和三一年(1956)

昭和22年に神田区、麹町区が合併し千代田区神田多町二丁目となった。
昭和28年、初代町会長に千田杏三氏(前列左より3人目)が就任。
10年間にわたり町会に尽し多大な功績を残された。
その間、二期に亘り神田公園地区連合町会長の重責をも勤められた。
その後は大塚紋太郎氏、小林泰氏、齋藤政吉氏、堀川豊氏が町会長を歴任。