神田市場
《神田多町市場の成立》
神田市場は別名、神田多町市場とも言われた。

寛永三年(1626)筋違橋御門外の河岸地で12軒の青物商が商売を営んでいたが
寛永十年(1633)河岸地での営業を禁止された。
そのうち4軒は田町に、3軒は連雀町に、2軒は佐柄木町に、3軒は永富町に移転して
営業を続け明暦大火(1657)の前には、問屋の数は81軒にも増えたという。

大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町へ合併し多町と永富町の問屋が商いを続けたが
多町の問屋集団が次第に盛況となり神田多町市場と呼ばれるようになった。
多町には一丁目と二丁目があるが市場が発達、発展していったのは二丁目である。
起立時の多町の範囲(一丁目、二丁目)は厳密ではないが
おおよそ現在の多町二丁目全体の範囲である。
現在の一八通りの北側(靖国通り側)が市場の二丁目。
南側(神田駅側)が一丁目であった。
多一、多二の起立時の江戸古町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続いた。

町名が「田町」から「多町」へいつ頃変わったのかは定かではないが
多町市場に住む人や出入りする人が多くなり
また流通する品物や物資が多くなった事など、
町の繁栄とともに「多町」と呼ばれるようになったのではないかと言われている。
     
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市場絵
江戸市中の市場の中でも多町を中心とする神田市場が群を抜いて発展したのは
徳川家御用達、江戸幕府御用市場の役目を勤めていたことが大きな要因である。
正徳四年(1714)幕府は多町問屋に青物御用を命じた為に
永富町の問屋の大半も多町市場に併合され問屋総数は94軒になり
亨保十年(1725)本白銀町に御納屋役所(青物役所)を設立したとある。
また一説では、幕府が正徳四年(1714)に竪大工町に青物役所を設立して
幕府御用としたという説もある。

市場は多町周辺の連雀町、佐柄木町、須田町、通り新石町へと拡大していき
神田多町市場、神田青物市場、神田市場などと呼ばれるが
その中心は多町二丁目であったという。
多町といえば市場、市場といえば多町の二丁目ではあるが
一丁目にも数は少ないが問屋や仲買があり、多くの市場関連業者が商いを営んでいた。

残念ながら江戸時代の初期から中期の多町(青物市場)の資料やエピソードは
ほとんど残っていない。
しかしながら江戸時代の後期になると「江戸名所図会」「武江年表」「東都歳事記」
などを残した雉子町名主、斉藤月岑こと斉藤家三代(幸雄、幸孝、幸成)により
多くの貴重な資料やエピソードが残された。

※斉藤家は青物役所の役をも担っていたので市場と奉行所との市場関係や
 天下祭関係のやりとりの公文書や覚え書きなども数多く残されている。
 因に2004年は月岑生誕200年の記念の年であった。

下の写真は大正時代初期の「神田多町市場」の初荷の風景である。
初荷
所狭しと道ばたに品物を置いて商いをする多町市場
市場写真
大安
屋号「大安」について
《 長谷川長太郎著『蛙庵雑録』より抜粋 》

(前略)市場のお祭りの様子を申し上げますと、問屋は市場内こぞって表通りに面した処の店は、前に青竹の手すりをまわし土間に張り出しを造り緋毛氈を引きつめ講武所の芸者が売り切れの盛況。山車は市場内の町内はこぞって方々へ飾ってあり小田屋の前には多町の「鐘馗」。連雀町の「熊坂」は万幸のあの広い店いっぱいに飾り、目の玉がくるくる回り電気が入り、点いたり消えたり見事だった。底抜け屋台はいくつも出るし、あっちこっちに「付け餅」があり、縮緬の揃いを着て博多を揃いで締め片抜きの気どったなりで揃った姿。市場五カ町は色変わりの半纏で若衆がお神輿を担ぎ、神輿の上ではもんもんが威勢よく掛け声をあげ「大安」のおじさん、「足立屋」の豊ちゃん、「山峰」の清ちゃんが、あの名人「彫宇之」の代表作を惜し気もなくさらしだし、私も半纏を重ね着で引き抜きで担ぎました。(中略)何しろ3日間総休み。前代未聞の大掛かりなもの。「積み飯台」はあるし、こんなお祭りは、このあとどこにもありませんでした。その後、各問屋が税務署にこってりしぼられた事を書いて、どんなに派手なものであったかを知ってください。(後略)
※大正10年「江戸天王祭」の話と思われます。
※この項、写真「風俗画報」「神田市場史」より転載。