いせ万 大西浅次郎 (明治7年〜大正14年)
「鐘馗」山車前にて 16人もの大勢が写っている
前列左から3人目がいせ万(大西浅次郎)
青物問屋、伊勢屋万次郎の五代目主人。

生っ粋の神田っ子気質がその容貌に調和し、
男が惚れる男であったという。

信仰に生きる「千社札」活動を展開し
納札の世界では右に出る者なし。
「いせ万大西千載子文庫」は
納札界では最も高名な研究書である。
また鳶頭「紺三」「連雀町」らと
神田彫勇会を結成して彫物(刺青)の伝承に励んでいる。
神田彫勇会は江戸彫勇会へと発展したが
名人「彫宇之」の図を彫った江戸っ子だけが入会でき
四谷、市ヶ谷あたりの人でも
「江戸っ子ではない」という理由で入会できない
という厳格な江戸っ子気質を守った。
大正14年、粋と洒落を貫いた風流な人生の幕を閉じた。
享年52才、芝金杉の円珠寺に眠る。

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いせ万の納札交換札

「芝で生まれて神田で育ち 今じゃ火消しの纏持ち」

いせ万、大西浅次郎は神田多町に生まれ育ち、そこに住していた。
町火消しの持ち場は第一区一番組(一番組よ組)である。
当時のよ組の組頭、紺三こと関口亀次郎(佐野周二の父、関口宏の祖父)とは
納札(のうさつ)、刺青(ほりもの)と共通の趣味の世界に生き特別に親交が厚かった。
この仕事師の気風をこよなく愛し、そして纏の造型美に魅せられた。
いせ万は大正10年6月21日、浅草代地の高砂倶楽部の納札睦大会に
第一区各組十本纏を、下記のように十六丁札に託して刊行した。

文章 「江戸っ子」より流用

画像 「江戸っ子」より転載