筑波登山記念撮写

大正15年8月16日 公休日
[神田市場青年会]

筑波山神社であろうか?
現在の筑波山神社は拝殿の正面屋根は唐破風である。
手前右は手水舎か鐘つき堂か?
150人を超える市場人が階段に整列している。
最上部には「神田市場」の額を置いている
この大きな額を神田からわざわざ持参したのだろうか?

私の祖父か叔父がこの中にいるのだろうが、わからない。
押し入れの奥からでてきた写真の一枚である。

東京市神田区佐柄木町21番地 丹羽写真館撮影

神田多町市場時代の茶屋(大正12年の関東大震災まで)

大正12年当時、多町市場に買い出しに集まる小売り商は、毎日4000人に達したという。
茶屋は当時で75軒あったという。
茶屋の仕事は、この4000人にもなる買い出し人や荷主の車を保管し、
買い出し人が買い付けた商品を問屋、仲買から茶屋まで運び荷車に積み込み預かる事であった。

早朝から昼までの短時間、関門に閉ざされた市場の地域は「人も踏み殺される」ような大混雑。
相対取り引きの市場の場内は、喧噪と人の波に呑み込まれるようであった。
各茶屋を利用する小売商(買い出し人)は、ほとんど固定していて
茶屋と利用する小売商(買い出し人)たちの間柄は、
市場人がよく口にする「親戚同様」の親密な関係が多かったという。

東京神田青果市場 茶屋株式会社 共済会懇親会会場

(裏面には)昭和5年1月16日 於熱海 共済会新年会とある。

神田青果市場 茶屋株式会社 慰安会

(裏面には)昭和7年正月16日写す 熱海玉の井旅館に於て 共済会新年会とある。

神田市場茶屋株式会社

茶屋組合は昭和3年、市場が秋葉原新市場に移転する際、いちはやく株式会社を組織して入場した。
茶屋の中には、問屋や仲買を兼業しているものが多かったが、兼業は禁止された。
また、多数の個人事業主がそれぞれ独立して経営するのも困難な事情もあり
秋葉原への移転を機会に、株式会社を設立する事になった。
多町時代の茶屋、約80軒のうち40軒が茶屋株式会社の株主兼従業員となった。

市場の南北に買荷保管所として茶屋会社の使用権を認められ、
さらに他の付属商の軒先の使用権があったため、茶屋会社と他の付属商は揉め続けたという。
茶屋株式会社の初代取締役社長は、多二塩栄こと黒井栄太郎さん(上記写真参照)

またこの時には、買出人が競売で落とした品物を茶屋の買荷保管所まで運ぶ業種として
神田青果運送株式会社が新業種として市場に発足している。

昭和16年に大平洋戦争が始まると青果物が配給統制されるようになり
茶屋の存在理由がなくなってしまった。
配給の時代になると茶屋株式会社は東京市から保証されていた
市場南北の買荷保管所の使用権をあっさりと放棄してしまったのである。
すなわち茶屋株式会社は定款に定められた期間の約半分の15年で解消、解散してしまった。