写真で見る山車
多町と神田祭

多町の氏神さまは、明神さま。神田明神である。
明神さまの氏子の中でも神田市場と日本橋魚河岸は圧倒的な財力を誇った町であり
特に神田市場は「神田っ子」の意識が強く「粋」な気負いで「見栄」を張る。
それが如実に表現されたのが『神田祭』であった。

江戸時代の神田祭において本社神輿に供奉する各町三六本の山車とその附け祭り。
多町一丁目は一八番、二丁目は一九番の番付で

多町一丁目は『稲穂に蝶』の山車
多町二丁目は『鐘馗』の山車が有名であった。

特に神田市場の多町二丁目の『鐘馗』山車は名工「原舟月」作で
山車中の王と言われ、現代に至っても語り種である。

天下祭とは 江戸時代に江戸城への入城を許され
天下様(徳川将軍)の上覧をうける祭禮のことで「山王祭」「神田祭」「根津祭禮」を言う。
元和元年(1615)に山王祭が初めて入城し将軍の上覧を賜った。
天和元年(1681)より山王、神田両祭禮は隔年で行なわれるようになった。
後の元禄元年(1688)には、神田祭も上覧を賜り、
これより山王、神田両社の祭禮が江戸の天下祭と称されるようになった。
※根津祭禮は正徳4年(1714)に一度だけの天下祭
神田御祭禮飯田町中坂上ル図(錦絵提供:神田明神)

神田祭の行列が九段中坂を上り、田安門へ向かう様子を描いている。
先頭の一番山車は大伝馬町・諌鼓鶏、二番は南伝馬町・猿。
幕府の御用を預かる有力なこの二つの町の山車は、
山王、神田の両天下祭に於いて一番、二番を定位置としていた。
もちろん、他の町の山車の番付も江戸時代を通じてだいたい決まっていた。

一番「諌鼓鶏」大伝馬町、二番「猿」南伝馬町、三番「翁」旅籠町一、四番「和布刈龍神」旅籠町二、
五番「神功皇后」鍋町、六番「歳徳神」通新石町などが坂を上りきっているのがわかる。
以下、延々と続く山車行列がこの錦絵に描かれている。
神田祭では本社神輿を供奉する、36番付の山車が附け祭も併せて入城し、さらに氏子の町々を練り歩いた。

天下祭番付18番 稲穂に蝶 旧多町一丁目
旧多町一丁目「稲穂に蝶」山車

◆作人作年 不祥

一見、武蔵野に見まがうが・・・
田んぼに蝶が舞い「田町」と
言葉遊びが感じられる。

残念ながら、まるで資料が残っていない。
全てナゾである。

天下祭番付19番 鐘 馗 旧多町二丁目
旧多町二丁目「鐘馗」山車

◆作人 二代 法橋 原舟月

●作年 享和年間(1801〜1804)
●高さ 一丈二尺
●装束 上着:黒地錦に雲に龍
     袴:白地錦
     帯:赤地錦
     後腰留:白地羅紗牡丹唐獅子
     靴:うるみ塗り
●青龍刀
●幟幡 源平紅白(羅紗)
    風車(五色の雲)
●高欄 獅子の彫り
●上幕 黄色(羅紗)
●下幕 テレンプ←?

☆大正12年9月1日、関東大震災で焼失

風俗画報より

江戸時代の天下祭に於いて
旧多一は18番の番付で「稲穂に蝶」山車で参加していた。
が、残念ながら1枚の写真も残っていない。
旧多二は19番の番付で「鐘馗」山車が有名で、
名工、原舟月の作で山車中の王と呼ばれた。

明和六年(1769)の神田祭においては多町の祭禮行列が
徳川中納言公の登城行列とかちあい
双方とも道を譲らず双方に死人がでるほどの大喧嘩となり
東叡山寛永寺に仲裁に入って解決してもらうほどの大事件となった。
この喧嘩の話は講談などでは
須田町の「関羽」山車行列が水戸家と喧嘩をしたとして語られている。