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江戸時代の神田明神の御祭神二柱は
一之宮:大己貴命(おおなむちのみこと だいこく様)
二之宮:平将門命(たいらのまさかどのみこと まさかど様)
江戸城へ入城し徳川将軍の御上覧を賜る天下祭「神田祭」では
この二柱の神様の神輿二基を中心に山車や附け祭などの行列が江戸城へ繰り込んだ。
以下は管理人・西平の私見、推測的考察であります。
予めご了承くださいませ。
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「神田明神祭禮絵巻」(昭和49年神田明神発行)に掲載されている
江戸時代の神田祭の二之宮「将門神輿」
入母屋屋根、屋形造りと言われる独特の屋根を持つ平屋台の神社型で
白丁烏帽子姿の者たちに担がれて渡御している。
「神田明神祭禮絵巻」
神田明神の社宝とも言うべき三巻からなる祭禮絵巻。
文久年間(1861〜1863)に一橋家の求めにより
幕府御用絵師の住吉内記広定が書いたものとされる。
神田明神の祭禮行列が最後に江戸城に入った安政四年(1857)の行列が描かれているが
作者が制作途中で病没したために第三巻は未完成である。
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関東大震災前の大正時代の中頃、神田青物市場の多町通りを渡御する旧二之宮「将門神輿」
画像:神田明神所蔵(平成4年1992発行 「神田明神史考」掲載写真)
安永元年(1772)火事により神田明神が全焼、安永八年1779に再建されている
その約150年後の関東大震災(大正12年1923)まで神社は焼けていないので
上記、絵巻の神輿の絵と神田市場を渡御する神輿の写真は
同一の旧二之宮「将門神輿」と考えてよさそうである。
人足風の者たちが白丁の装束で担ぎ渡御をしている。
鳶の者らしい若い男が神輿の前後に上がり景気を煽っている。
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神田明神発行「神田明神史考」によると
大正10年(1921)にこれまでの一之宮と二之宮の二基の神輿を廃棄して
絢爛豪華な鳳輦を一基作り上げ、翌大正11年(1922)の神田祭に於いて披露している。
ところが、新調した鳳輦は翌12年の関東大震災で神社社殿もろとも灰燼に帰してしまった。
絢爛豪華このうえなき鳳輦もただ一度の披露で消滅してしまいました。
(関東大震災も?将門さまの祟りなのでしょうか・・・)
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【関東大震災直後の旧二之宮「将門神輿」の神輿振り(まぼろしの神輿という)】
と写真キャプションにある、年代日時不明の謎の写真です。
大正12年関東大震災により江戸時代より約150年間にわたり無事であった
社殿や祭器、資料は全焼していたので、この旧二之宮「将門神輿」の写真が謎であった。
大正11年に新たに鳳輦を造った時に廃棄されていなかったと思われていた。
仕事師(鳶)が荒ぶるに神輿を担ぐ様子が撮影されている。
宮本町会の高張堤灯が見えますので神田明神参道でしょうか。
画像:神田明神所蔵(平成4年1992発行「神田明神史考」掲載写真)
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近年、旧神田多町一丁目(昭和9年)、日本橋室町一丁目(昭和11年)などの
昭和初期の「将門神輿」が映されている神田祭の様子を撮影したフィルムが見つかっている。
やはり旧二之宮「将門神輿」は廃棄されずに無事であったかと思われたが
フィルム(ビデオ化)をよく観察すると、神輿が旧神輿とちがうのではないか?
と言う疑問が湧いてくるのである。
【 旧多町一丁目町会(現神田多町二丁目)フィルム 】
昭和9年の神田祭渡御祭巡行において多町通りを往く牛二頭曳きの「将門神輿」が。
【 旧室町一丁目東町会(現日本橋室町一丁目)フィルム 】
昭和11年の神田祭において「将門神輿」を威勢よく担ぎ渡御している。
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これより以下の4点の画像は
平成18年(2006)5月
神田明神資料室において
神職K氏によって新たに発見された写真です。
「神田明神史考」P255〜256の記事が
これまですでにあった旧多一フィルムや室一フィルムに
この新発見の写真を合わせると、さらなる記事ができあがりそうです。
関東大震災から11年後、昭和9年(1934)に再建された
神田明神新社殿完成の記念式典(推測)の様子を撮影された写真と一緒に
新たに造り直された旧二之宮「将門神輿」の写真が発見されました。
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この「将門神輿」が大きく撮影されていることにより
「神田明神史考」に掲載されている旧二之宮「将門神輿」と比較検討すると
この二つの神輿には明らかに違う部分を多々見つけることができる。
すなわち昭和9年の神田明神の社殿再建と合わせ
新二之宮「将門神輿」が新たに造られていたのです。
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記念式典受付の天幕、記念品が並んでいます。
現在の社務所あたりの場所と思われます。
天幕の奥の石碑は「彰忠碑」
乃木稀典将軍の書になる日露戦争で亡くなった兵の霊を慰める石碑です。
その裏面には戦没された旧神田区出身者の名前が刻まれています。
現在この石碑は社殿裏の祖霊社後方にあり人目に触れる事は多くありません。
天幕右上の立ち枯れた木は明神男坂の脇の銀杏の木です。
かつて江戸時代には江戸湾に浮かぶ船が目印にしたという大銀杏ですが
関東大震災の火災により、その姿は見るかげもありません。
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新社殿前に拵えた大天幕のもと、いま正に式典の真っ最中です。
宮鍵の高張堤灯を見ることができます。
「神田明神史考」によると新社殿は昭和9年(1934)5月7日落成・遷座とある。
建築費用は金88万円也、全額氏子崇敬者の浄財とのこと。
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天幕はありませんので多分上記式典の日と同日ではないと思われます。
この写真の発見により、震災前の旧二之宮「将門神輿」との
比較が容易になりました。
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人々の目が新造された新二之宮「将門神輿」に注がれています。
正面中央の木が震災で焼けた明神男坂の大銀杏。
右側の木造三階建ての立派な家屋は、明治時代の錦絵にもなった
明神下の有名料亭、島崎藤村も結婚式を挙げたという「開花楼」。
ここから眺める月見の宴が風流この上なしと評判であったらしい。
かつてのNHK会長、坂本朝一氏の生家ともいう。
いま、この位置には開花ビルが建つ。男坂下に料亭「新開花」がある。
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江戸時代より関東大震災までの「旧二之宮・将門神輿」と
昭和9年社殿再建時に造られた「新二之宮・将門神輿」の相違点。
●千木(屋根の飾り) 旧神輿は角度があり長い
●蕨手 形や厚みが違う
●旧神輿には蕨手に小鳥がいるが、新神輿には小鳥は乗っていない
●葺き返し(賽銭受け)のデザイン形状が著しく違う
●瓔洛の飾り金具の形状、寸法が著しく違う
●鳥居の形状、色が違う
●囲垣の形状、色が違う
などなど、新旧「将門神輿」の相違点を発見することができます。
江戸時代の天下祭で渡御巡行され、江戸城入城した旧二之宮「将門神輿」は
大正10年に新たなる鳳輦を作る際に廃棄されたのでしょうか。
それとも関東大震災で焼失したのでしょうか。
たかだか100年にも満たない過去の事実が解明できないもどかしさがあります。
どちらにしろ今回掲載した写真が発見された事により
旧二之宮「将門神輿」は再建されたことがわかりました。
しかし、この神輿も後の第二次大戦で灰燼に帰し(裏付けなし)
以後、昭和59年まで復活することはありませんでした。
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屋形造りの旧二之宮を「将門神輿」と言ってはいますが
祭神としての「平将門命」は明治7年に本社御祭神から末社に格下げされました。
旧二之宮「将門神輿」は、新たに二之宮御祭神に奉祭された
「少名彦命(えびす様)」の御乗物として氏子の町々を巡行されていたようです。
【 参 考 写 真 】
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「彰忠碑」稀典書
乃木稀典大将の書なる慰霊碑。
旧神田区の日露戦争戦没者の名前が
石碑の裏面に刻まれている。
かつて、この石碑が社殿に向かって境内の
右側の中央に建っていたことがわかる。
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明神男坂上「大銀杏」
関東大震災の火災で無惨な姿であったが
ところがドッコイご覧のように
少しではあるが上部に葉を茂らせている。
果たしてこの地で、いったい何年の間
明神さまと祭事と氏子の人々を
見てきたのだろう。
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三の宮鳳輦(平将門命)
昭和59年、平将門命は明治7年に
末社に下げられて以来110年振りに
本社の御祭神に復活され三之宮御祭神に。
氏子の浄財により絢爛豪華な鳳輦が新調され
神幸祭行列に三柱の御祭神が揃われた。
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将門神輿(将門塚保存会)
平成17年の神田祭において
担ぐことができる将門神輿が復活した。
三井物産株式会社より将門塚保存会に
寄贈された台輪三尺五寸の大神輿は
大手町・丸の内の企業人によって担がれ
見事な宮入参拝を成し遂げている。
鳳輦、神輿とも入母屋屋根屋形造りの形式で
江戸時代よりの伝統を引き継いでいる。
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神田明神の旧二之宮・将門神輿が新たに造られていた事実が
今回の新発見の写真によって解明されました。
新社殿の完成の時期に合わせた昭和九年の新調と考えたいところです
が、・・・確固たる裏付けはありません。
ここに掲載した画像は【神田明神所蔵】です。
許可なく複製、転載を禁じます。
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