2007年6月
旧多町一丁目の旧神輿と神田祭に関わる
古写真が新たに発見されさらなる事実が判明した
 ◆
 
人も神輿も『威風堂々』。

関東大震災により神田、日本橋が壊滅してから、
1年半しか経過していないこの年は全体としての「神田祭」は行なわれてはいない。
旧多一町会が祭を挙行する。豊かな財力と心意気であろうか・・・
巨大なお仮屋も見事なものである。

◎山田光太郎氏(前列右から3人目)
昭和7年・9年の「神田祭」の貴重なフィルムを残してくれた。のちの町会長。

◎山路徳三郎氏(後列右端)
当代鳶頭、山路修一郎氏の父君、当時16歳。
因みに中列左側の黒半纏の小柄な方は先先代(当代の祖父)の鳶頭である。

◎秋山三五郎氏(後列右から2人目)
神輿など神器一式の作人。西八丁堀、秋山三五郎商店のご当主。
 

  
と、以前から掲載してある
「神田多町の旧神輿」項のトップ画像と同じ写真である。

以前より掲載のトップ画像は「多壱」鳶頭より借用しているが
サイズはキャビネ(12×16)と小さいプリントであった。

今回、新たに発見された下記↓の写真はプリント部分が36×26cmと
B4サイズ位と大きく、さらに台紙に貼られタイトルと日付けがついていた。
(ご覧のように状態はかなり悪い)

 

台紙の上部には「奉祝銀婚式記念」とある
台紙の下部には「神田区多町壱丁目町会 大正拾四年五月拾日」とある
さらに写真館の名が続くがつぶれていて解読不明であった

「大正天皇御夫妻の銀婚式」奉祝記念と判明
関東大震災(大正12年9月)により壊滅状態となり復興ままならないこの時期に
旧多町壱丁目町会は、この豪勢な神酒所・御仮屋を拵え神祭器一式を並べ
「大正天皇御夫妻の銀婚式」奉祝神田祭を執り行なったわけである。
 

写真が大きいので、日の丸奉祝の高張堤灯の横で風に揺れる
「招き布」の文字を読み取る事ができました。
左上:招き布には「奉納 神田市場 万幸」とある。
   「万幸」は神田青物市場・連雀町の大店である。
   大正10年の「江戸天王祭」では
   「熊坂」人形を飾った店としても有名である。

右上:「市場 まつ本 伊勢長」
   「神田市場 西藤」と二つの招き布が揺れている。
   「伊勢長」「西藤」とも多町二丁目の大店
   この二店の当主は兄弟である。

神田多町青物市場も関東大震災の被害は甚大で
全滅状態であったというが、震災後はバラックを建て
商いを再開したという。
旧多壱町会も関東大震災では辛酸を極めたと思うが
何はともあれ「奉祝 銀婚式記念」とお祝いの
神田祭を町会独自で斎行されたと思われる。

この後、氏子全体で神田祭が執り行なわれるのは
大正11年以来10年後の昭和7年である。
関東大震災の被害や震災復興計画などで
神田祭は10年間の空白をかこったわけだが
この旧多壱町会のように町会単独で神田祭を斎行した
町会が他にもきっとあったと想像せざるを得ない。

伊勢長・松本家の招き布(現物)
寸法は違うと思うが、同じ図柄である
↓左:連雀町「万幸」に展示された「熊坂」  右:神田明神資料館に展示の「熊坂」

大正10年 江戸天王祭「熊坂」展示(最下段の文章参照)


神田青物市場と明神様
関東大震災で焼失した明神様が再建されたのは昭和9年。
その1年前の昭和8年5月に一対の
「獅子狛犬」が神田青物市場の有力な氏子である
市場人8名により奉納されている。

現存する「獅子狛犬」の台座裏には(右より)
多町二  
白濱藤七(屋号 西藤)
多町二  
松本長次郎(屋号 伊勢長)
佐柄木町 金子萬次郎(屋号 定万)
連雀町  黒川直吉(屋号 万直)
連雀町  澤田久太郎(屋号 沢久)
連雀町  江沢浦吉(屋号 万浦)
連雀町  小栗寅雄(屋号 不明)
連雀町  小栗兆兵衛(屋号 小田原屋)とある。
「招き布」二店の当主の名がこの台座↓に刻まれている。

神田明神社殿と狛犬(現在)


当時、発行された記念絵葉書